戦役アーカイブ · 四渡赤水
3万の紅軍は川・黔・滇三省境の山地で数十万の国民党軍に囲い込まれ、4か月のあいだに同じ赤水河を4度渡り、大きな弧を描いて包囲網から抜け出した——疲れ切り、減員は甚大だった。それでも、抜け出した。
戦闘概要

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 時期 | 1935.1.19 – 3.22 前後。四渡本戦は約2か月。前奏(1934.12 の烏江強行渡河、1935.1 の遵義占領)を含めれば 1934.12 から起算 |
| 場所 | 貴州・四川・雲南三省境、赤水河の上・下流、婁山関、遵義、茅台一帯 |
| 所属 | 土地革命戦争 · 長征(中央紅軍/紅一方面軍段階) |
| 機動側 | 中央紅軍(紅一方面軍)。中革軍委の指揮。遵義会議後は毛沢東らで構成された軍事指揮小組が担当(組織の詳細不明) |
| 追堵側 | 国民党軍中央軍(薛岳、呉奇偉、周渾元らの部隊)および川軍、黔軍、滇軍などの地方軍系 |
| 結果 | 紅軍は合囲を抜け、南へ烏江を渡り、西へ雲南に進んで追撃軍主力を振り切った。ただし兵力は出発時の8万余りから3万前後へ急減(通道、湘江以来の累計減員を含む。数え方は「代価」節参照) |
交戦勢力
| 項目 | 機動側 | 追堵側 |
|---|---|---|
| 兵力 | 遵義会議前後で約 3万(湘江の戦い後、8.6万からここまで急減。これは通行する数え方で、詳細不明) | 各路合計で約 40万(国民党側の配備上の数え方。川・黔・滇の地方軍を含む。未詳) |
| 火力 | 小銃、少数の機関銃・迫撃砲。弾薬は鹵獲で補充 | 中央軍の装備は比較的整い、地方軍系はまちまち。航空偵察あり |
| 補給 | 後方なし。現地で糧食を調達(沿線農村からの取用は「代価」節 ※ 参照) | 後方と交通線はあるが、山地での補給は同じく困難 |
| 機動 | すべて徒歩。長期にわたり1日数十里を進み、極度に疲弊 | 道路・鉄道は使えるが、重装備は山地で展開しにくい |
戦場環境

(大きな時局——第五次反「包囲討伐」の失敗、長征の戦略背景と遵義会議——は『土地革命戦争·総覧』参照。ここでは川・黔・滇境だけを書く。)
川・黔・滇境: 赤水河は雲貴高原北縁の褶曲山地を流れ、両岸は山が高く谷が深く、道路は少なく、渡し場が命脈だった。遵義、茅台はいずれも黔北の町で、茅台は酒の産地として知られる。この地域では軍閥勢力が入り組んでいた。黔軍の王家烈部は弱く、川軍の劉湘部主力は入川阻止に当たり、滇軍の竜雲部は雲南の入口を守った——いくつかの地方軍はそれぞれ防区を守り、それぞれ計算があり、協同はもともと固くなかった。
社会状況: 黔北は古くから貧しい土地とされ、民間には「地に三里の平らなく、天に三日の晴れなく、人に三分の銀なし」という言い方がある(俗諺の流布年代は未詳)。紅軍が入境した時、軍紀は官軍より厳しく、土豪を打倒して浮財を分けるという宣伝もあり、一部の貧しい民衆から支援を得た。同時に、大軍の通過と糧食調達は、地元農村にとってなお重い負担だった(「代価」節 ※ 参照)。
なぜ戦われたか
湘江の7日間で、8万6千人は3万余りになった(『湘江の戦い』参照)。血で払った授業料が二つのものをもたらした。壇や甕のような荷物は現地に埋め、部隊はそれ以後軽装になった。湘西へ北上して紅二・六軍団と合流するという当初の方向は、すでに死路であると認められた——蒋介石がその道に網を張って待っていたからである。1934 年 12 月、通道、黎平の2度の会議で貴州へ進路を変え(会議の詳細は『土地革命戦争·総覧』参照)、年末に烏江を強行渡河し、1935 年 1 月 7 日に遵義を急襲占領した。1 月中旬、遵義会議で軍事指揮が改組された。
指揮する人間は替わったが、置かれた状況は替わらなかった。約3万人、後方なし、弾薬は鹵獲頼み、糧秣は沿途で調達、四方には合計約40万の追堵軍がいる(配備の数え方には諸説あり)。止まれば合囲される。唯一の活路は、動きながら隙間を探すことだった。隙間は実際にあった。相手の計算の隙間にあった——川・黔・滇境は軍閥防区の継ぎ目だった。川軍の劉湘主力が防いだのは紅軍の入川、滇軍の竜雲が守ったのは雲南の入口、黔軍の王家烈部が最も弱かった。いくつかの勢力はそれぞれ防区を守り、それぞれ計算があり、協同はもともと固くない。紅軍が歩ける道は、そうした計算が互いにぶつかる場所にあった。
遵義会議後の方向は本来明確だった。北へ長江を渡り、紅四方面軍と合流する。蒋の目標も明確だった。この3万人を川・黔・滇境で包囲殲滅する。二つの計画はいずれも実現しなかった——四渡赤水はそこから生まれた。それはあらかじめ設計された「妙手」ではなく、土城で敗れ、入川計画が挫折したあと、やむなく一度渡り、また渡り、進みながら方向を変えた一連の機動だった。後から見れば敵を動かした機動であり、当時から見れば一歩ずつ見ながら進むものだった。この節はそこを避けない。
情報は両側とも完全ではなかった。紅軍には地方軍系の計算が見えていた。川軍は四川を守り、滇軍は雲南を守り、黔軍は自分のことで手一杯で、防区が合囲に優先した。見えていなかったのは川軍の実力だった——土城では郭勲祺部を4個団と判断したが、ぶつかったのは6個団以上の手ごわい部隊だった(誤判の数え方は諸説あり)。北へ長江を渡る計画はその場で廃棄された。蒋には地図が見えていた。3万人、後方なし、四方に約40万の追堵軍。見えていなかったのは、この3万人が次にどこへ向かうかだった——四渡のあいだ、紅軍はたびたび方向を変え、変えるたびに追堵軍の配備は組み直しになり、山地で一度組み直すだけで数日を要した。物質の勘定は両側に同じく厳しかった。紅軍は後方がなく、糧食は調達、弾薬は鹵獲、渡河は徴発した戸板や木船に頼り、4か月にわたって1日数十里を行軍し、戦死よりも落伍のほうが多かった。追堵軍には鉄道と道路があったが、戦場は山中で、重装備は展開できず、地方軍はまた自分の防区を他人に貸そうとしなかった。
異議も記録に残っている。二渡赤水、遵義再占領のあと、3 月中旬の苟壩会議で、多数は打鼓新場への攻撃を主張し、毛沢東ひとりが反対して、その意見は否決された。彼はその夜、周恩来を説得しに行き、翌日の会議で命令は撤回された(会議の日付と表決の詳細は未詳)。以後、軍事指揮は周恩来、毛沢東、王稼祥の3人小組が担当した(成立時期と場面は諸説あり)。部隊の不満も同じく実在した。「歩くことが多すぎ、戦うことが少なすぎる」——数か月後、林彪は会理会議の前に軍事指揮の交替を求める書簡を書いた(『土地革命戦争·総覧』参照)。言っていたのは同じ勘定だった。
1 月 19 日、紅軍は遵義を離れて北上し、長江へ向かった。
戦闘経過

| 段階 | 時期 | 要点 |
|---|---|---|
| 前奏:烏江強行渡河 | 1934.12 末–1935.1 初 | 黔軍が河沿いに布防し、紅軍は回竜場、江界河などの渡し場で竹筏や木筏により強行渡河して突破した(各渡し場の具体的日付は諸説あり)。遵義方面への通路を開いた |
| 遵義占領 | 1935.1.7 | 遵義を急襲占領し、黔軍は北へ撤退。1.15–17 遵義会議(会議そのものは『土地革命戦争·総覧』参照。ここでは一筆にとどめる) |
| 土城の戦い | 1935.1.28 | 青杠坡で川軍郭勲祺部と遭遇。情報では「4個団」と判断したが、実際は6個団以上で、援軍も続いた(兵力の誤判の数え方は諸説あり)。攻撃は失敗し、朱徳が前線に親臨して督戦した(この数値には異説あり)。紅軍は自ら戦闘から撤出——負けたからこそ、一渡が生まれた |
| 一渡赤水 | 1935.1.29 | 土城、元厚場などの渡し場から赤水を西へ渡り、川南へ入った。当初は北へ長江を渡って紅四方面軍と合流する予定だったが、川軍が長江沿いを厳重に封鎖したため断念 |
| 扎西整編 | 1935.2 上旬 | 雲南扎西(現在の威信)で縮編し、戦闘中隊を充実させ、機関を簡素化 |
| 二渡赤水 | 1935.2.18–21 | 敵の不意を突いて東へ戻り、太平渡、二郎灘などの渡し場から再び赤水を渡って貴州に入り直した |
| 婁山関、遵義再占領 | 1935.2.25–28 | 2.25–26 に婁山関を奪取し、2.28 に遵義を再占領。追撃してきた中央軍呉奇偉部2個師の大部を撃破した(戦果の数え方は諸説あり)——長征以来初めての大勝利。毛沢東『憶秦娥·婁山関』の「蒼山海の如く、残陽血の如し」はこの時期の作とされる(詞作の系年は未詳) |
| 三渡赤水 | 1935.3.16–17 | 茅台渡口から西へ渡り、川南へ入って北へ長江を渡る構えを見せ、川・滇軍を西へ向かわせて堵截させた |
| 四渡赤水 | 1935.3.21–22 | 突然折り返し、二郎灘、太平渡などの渡し場から秘密裏に東へ渡り、続いて南へ烏江を渡り(3 月末–4 月初、日付は諸説あり)、貴陽へ迫った |
| 滇軍を引き出す | 1935.4 初 | 蒋介石は貴陽で督戦中であり、滇軍に東援を急命した。紅軍はその隙に乗じて西へ雲南に進んだ。「滇軍を引き出せさえすれば勝利だ」という言葉は毛沢東に帰される(典拠未詳) |
損害

- 紅軍のこの段階における戦闘傷亡は相対的に限られていたが、非戦闘減員はきわめて重かった。4か月連続の高強度な山地行軍により、落伍、傷病、逃亡で兵力は流出し続けた。遵義会議時は約3万人、大渡河の前にはすでに2万人未満になっていた(数え方は諸説あり。詳しくは『金沙江と大渡河』参照)。
- 体験者と後世の研究はいずれも指摘している。この段階の部隊は極度に疲弊し、「歩くことが多すぎ、戦うことが少なすぎる」という不満が党内・軍内に実在した(林彪が会理会議前に中央へ軍事指揮の交替を求める書簡を送った件は『土地革命戦争·総覧』参照。詳細不明)——機動の冴えと、部隊が払った体力上の代価は同時に存在する。
- ※ 民生上の代価(紅軍側):3万人の部隊に後方はなく、糧秣は沿途で調達した——土豪打倒、徴借、購入が並行し、比較的良好な軍紀の記録と、強制的な糧食調達や人夫・道案内の徴発の記録が併存する(沿線州県の地方志にはそれぞれ記述があり、体系的な比較は未詳)。
- ※ 民生上の代価(追堵側と地方軍系):川、黔、滇の各軍も防区内で焼き討ち、殺害、割当徴収、人夫徴発を行った事例がある(具体地域と規模は詳細不明)。黔北の民衆は両軍の通過のあいだで二重の負担を負った。双方の取用を、本篇では併記する。
戦後への影響
- 紅軍は雲南に入った後、金沙江の皎平渡へ直進し(1935.5)、数十万の追堵軍による合囲圏を抜けた。長征で最も危険な囲堵段階はここで越えられた(詳しくは『金沙江と大渡河』参照)。
- 国民党側:蒋介石が紅軍を川・黔・滇で包囲殲滅する計画は空振りに終わり、薛岳らの部隊は数か月追撃して得るものがなかった。各地方軍系の「追うが堵がず、防区を優先する」遠心傾向は、この囲堵の中で十分に露呈した。
- 四渡赤水は後に中共軍史における「運動戦」の古典的範式となり、毛沢東は晩年、これを生涯の「得意の一筆」と自称した(モントゴメリーとの談話記録に見える。原文は未詳)。
当事者の証言

- 土城の誤判:青杠坡の陣地で午後まで対峙して、ようやく向かい側の兵が戦うほど増えていくことに気づいた——情報は川軍の1個旅を1個団級規模と判断していた(誤判の詳細不明)。この戦いが「四渡赤水」の起点だった。妙計の幕開けではなく、敗戦の結末だった。
- 茅台の酒:三渡の渡し場は茅台にあり、部隊が町を通った時、酒で足を拭いて傷を治したという話が広く流布している。体験者の回想と後世の脚色の程度は一様ではない(詳細の層位は未詳)。
- 担架の上の指揮:毛沢東は当時、マラリアから回復したばかりだった(身体状況は未詳)。多くの重要な決定は行軍の途中で下された。周恩来は実際の軍事指揮における最後の決断者だった(遵義会議決議の文言は未詳)。
- 歩いた人々:連続する夜間行軍の中で、兵士は前の人の背嚢帯をつかみ、眠りながら歩いた(体験者の回想。典拠未詳)。落伍者の具体的な数は統計されていない。
- 地元の支援:黔北の干人(貧しい人々)が紅軍のために道案内、通報、傷病員の収容を行った事例は、地方志と口述史に散見される。具体的な個別例は未詳。
戦場の地形

- 赤水河そのもの:河谷は深く切れ込み、渡し場と渡し場のあいだはしばしば数十里の山道になる。渡し場を支配することが機動方向の支配だった。太平渡、二郎灘、茅台、土城の各渡し場にはそれぞれ地形上の差があった。
- 婁山関:黔北第一の険隘。二つの山が一つの谷を挟み、遵義の北門である——一つの関門が一つの都市の帰属を決めた。
- 青杠坡:土城東側の瓢箪形の谷地。川軍は高所を占め、紅軍は見上げる形で攻めた——地形上の不利は土城失敗の技術的原因の一つだった。
- 山地夜間行軍の空間:道路はなく、小径が多い。大部隊は夜間、山道の上で数十里の長い線となり、先頭と後尾は互いに顧みることができなかった。
- 茅台渡口:川幅は比較的広く、水流は穏やかで、4度の渡河の中で最も落ち着いて行えた一度だった——渡し場の条件と「構えを見せる」意図が合っていた。
各方面の記述
- 共産党正典(長征叙事):四渡赤水は毛沢東の軍事指揮の代表作であり、「奇を出して勝つ」「用兵神の如し」の古典的戦例である。遵義会議は毛沢東の軍事指導地位を確立し、この戦役は「紅軍を救った」ことの直接の証明とされる。
- 国民党側の「追剿」叙事:公式戦史はこの戦役を「朱毛残匪」に対する川・黔・滇の囲堵と称し、堵截が失敗したことを認め、その原因を地方軍の協同不全と地形の隔たりに帰した(具体的な戦史表現は未詳)。蒋の日記と電文には、囲堵失敗への検討が多く見える(原文は未詳)。
- 後世と学界による再検討:
- 「毛沢東の用兵は真に神の如し」という理解の脱神話化と復元。研究は、四渡が一度あらかじめ設計された機動ではなく、土城の敗北、入川の阻止といった受け身の要素が実在したと指摘する。指揮の卓越は「間違えれば改め、改めるのが速い」点にあり、未来を予知したことではなかった(考証の層位:学界の定性的判断。具体文献は未詳)。
- 土城の戦いの情報誤判、遵義大捷の戦果の数え方はいずれも再検証を経ている(層位:史料根拠のある学術的商榷。項目ごとの検証を要する)。
- 上記の再検討は、解釈の層位の差に属する。
論争と留意点
- 「得意の一筆」と「やむを得ない機動」:二つの読みはいずれも根拠があり、正典と考証の落差そのものもあわせて記録する。
- 減員の性質:この段階の紅軍の減員は戦死ではなく、疲弊による落伍を主とした。正典叙事における「四渡」の輝きと、部隊が実際に受けた消耗との落差は、叙事の均衡に関わる留意点である。
- 川軍の役割:川軍郭勲祺部は土城作戦で粘り強く戦い、抗戦中にも戦績があった(後に新四軍戦区職務に就き、中共との関係も複雑だった。始末は未詳)——地方軍系の人物は単一の面だけではない。
- 土城の敗北は区別して見る必要がある。「四渡」の要点は、歩くことをもって打ち、誤りを改めることをもって勝つ点にあり、「神機妙算」ではない。
資料と未詳事項
既知の主要資料:
- 『紅軍長征記』(体験者文集)
- 聶栄臻、楊成武ら紅一方面軍将領の回想録(各巻は未詳)
- 国民党方面:薛岳部追剿戦闘詳報、蒋介石日記と電文(台湾「国史館」蔵。未詳)
- 川・黔・滇地方志の関連巻帙(この数値には異説あり)
未詳事項:苟壩会議の日付と表決の詳細。3人軍事小組の成立時期と場面。各渡し場における烏江強行渡河の具体的日付。土城での川軍の実兵力と誤判の詳細。朱徳が土城前線に親臨した件。遵義大捷の戦果(撃滅数)の数え方。『憶秦娥·婁山関』詞作の系年。「滇軍を引き出せさえすれば勝利だ」という言葉の典拠。毛沢東とモントゴメリーが「得意の一筆」を語った原文。紅軍各段階の兵力数字の数え方。沿線での糧食調達と人夫徴発に関する地方志の記載。林彪の会理書簡の原文。川軍郭勲祺の生涯の始末。
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