第一次アヘン戦争 · 1840.7.4 艦隊が港に到着して降伏を勧告;7.5 開戦;7.6 朝、城陥落 · 戦役アーカイブ

戦役アーカイブ · 第一次定海の戦い

清軍の戦死者は13人、県城は1日で陥落した。その後の半年で、占領軍では448人が病死した。砲火が9分で決めた戦闘に、疫病が半年をかけて勝敗を書き換える皮肉な脚注を付けた。

戦闘概要

本サイトの図版はすべて AI により生成された情景イメージです。歴史写真でも史料でもなく、実在の個人を指すものでもありません。
AI 生成の情景イメージ、歴史写真ではありません
項目内容
時間1840.7.4 艦隊が港に到着して降伏を勧告;7.5 開戦;7.6 朝、城陥落
場所浙江・定海(舟山島)、県城および道頭港
防御側定海鎮水師と県城(総兵 張朝発、知県 姚懐祥)、兵約2,000(この数値には異説あり)
攻撃側英国遠征軍主力(艦隊司令 ブレマー、陸軍司令 バーレル)、軍艦10余隻、上陸兵数千
結果城陥落;英軍は北上して白河へ向かうための「担保」を得て、浙東の門戸が開いた

交戦勢力

項目防御側攻撃側
海上水師船20余隻、過半が修理不全(この数値には異説あり)戦列艦・フリゲート10余隻、舷側砲の総数は百単位
沿岸防備道頭一線の土製砲台、砲は旋回できない艦砲が接近して直射
兵員定海鎮標水師は200年近い平時が続き、実戦を知る世代が一世代もいない遠征軍の正規陸軍 + インド部隊

戦場環境

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舟山:南北洋航路の中点にある漁業・製塩の商港で、英国人は50年前からここに目を付けていた。1793年のマカートニー使節団の要求リストにも舟山が入っていた。定海は長い平時の中で、城防は形だけに近かった。水師の弊害は、紙面上の船数と実際の戦力が二つの別勘定だったことにある。

なぜ戦われたか

九龍・穿鼻の砲声は、二枚の決定を生んだ。北京側では、道光帝が「七戦七捷」の上奏報告を受け、英国貿易の断絶と英船の駆逐を命じた。ロンドン側では、内閣が前年10月に遠征方針をすでに決め、2月にエリオットを任じて軍を率い東へ向かわせた。1840年4月、議会では野党の譴責動議が271対262で否決された。9票差で、予算は通った。6月、遠征軍が中国に到着した。陸軍は約4,000、艦船は40余隻。遠征軍は広州を攻めず、艦船を残して珠江口を封鎖し、主力は帆を揚げて北上した。

英軍の打法は三手だった。珠江口を封鎖し、舟山を奪って質とし、北上して白河で書簡を差し出し圧力をかける。ロンドンにとって、広東でどれだけ勝っても条約は得られない。外交文書は北京の目前まで届けなければならず、手元にはまず交渉の卓上に置けるものが一つ必要だった。舟山が選ばれたのは思いつきではない。この南北洋航路の中点にある漁業・製塩の商港は、50年前から名を挙げられていた。1793年のマカートニー使節団の要求リストにも舟山が入っていた。一艦隊が遠路から来る場合、孤島と深い港は、占めやすく、守りやすく、値を付けやすい場所だった。

ロンドン側にも反対の声がなかったわけではない。4月の採決で、野党の譴責動議は9票差で敗れただけだった。討論の席では、これは麻薬貿易を守るための戦争だと直言した者もおり、のちに4度首相を務めるグラッドストンもその一人だった(演説原文未詳)。動議は敗れ、予算は通った。異議は議事録に残り、艦隊はそれでも出航した。決心した時点で、ロンドンの手元にあったのは商人の陳情、使節団の旧記、そして舟山を記した一枚の地図だった。欠けていたのは対岸の沿岸防備の実測で、この空白は7月5日の9分でようやく埋まることになる(この判断は戦果の懸隔から推したもの、未詳)。

海のこちら側は、このことを何も知らなかった。浙江は200年近い平時が続き、定海の城防は形だけに近く、水師の紙面上の船数と実際の戦力は二つの別勘定だった。広東から上がった勝報は、英国人は海上で騒擾するだけだと北京に信じさせもした。両側が計算していたのは、そもそも同じ一つの帳簿ではなかった。英軍が計算していたのは担保だった。定海は目標ではなく、交渉卓上の駒だった。この点を守城者が知るすべはなかった。彼らが知っていたのは、城は失えないということだけだった。失土は、罪を問われる。

北京は、英船が北上して来ることを全く聞いていなかったわけではない。それ以前にも、沿海各省に厳重な防備を命じる諭旨は出ていた(諭旨の月と文言は未詳)。林則徐も広東で英軍の陸戦能力について楽観的な判断をしており、それが上奏報告として幾層も伝えられていた(典拠に争いあり、未詳)。しかし諭旨が浙江に下ったとき、それを実行するのは200年近い平時を過ごした汛塘の水師だった。船は修理不全、砲は旋回できず、兵は各汛塘に散っていた。援兵は海を渡らねばならず、隣省から兵を浙江へ送る諭令はまだ途上で、城はすでに陥落していた。防御側内部に唯一残された別の判断は、姚懐祥が敵艦から戻って言った「船は堅く砲は鋭く、争える相手ではない」という一句だった。それが否定したのは「勝てる」という望みであり、「守る」ことそのものは否定できなかった。失土を問責されるもとで、守るか守らないかの間に第三の道はなかった。城を捨てる、あるいは降伏を請う議論は、記録には見えない。

7月4日、艦隊は定海道頭の外に泊まり、ブレマーが書簡を送り、翌日の城明け渡しを限った。守り切れるかどうかと、守るかどうかは別のことだった。期限は1日。

戦闘経過

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段階経過
7.4艦隊が道頭の外に泊まり、ブレマーが書簡を送って翌日の城明け渡しを限る。姚懐祥はウェルズリー号に乗って交渉し、砲艙の充実を自ら見て、戻ると「船は堅く砲は鋭く、争える相手ではない」と言ったが、それでも守る決意をした(詳細の典拠未詳)
7.5午後、英艦が一斉射撃し、一回の射撃で沿岸砲と水師船を制圧した。英国側記録では主な砲戦は約9分(典拠未詳)。張朝発は乗船中に被弾して落水し、重傷を負った(のち死亡)。夕方、英軍が上陸して城外高地を占めた
7.6朝、城が破られ、姚懐祥は梵宮池に身を投じて殉じた。定海陥落

損害

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  • 防御側:清側史料では戦死13人と数える(茅海建が引用した档案による、未詳)。残部は潰散した。数字の小ささと城陥落の速さは互いに脚注となっている。これは血戦ではなく、体系的崩壊だった。
  • 攻撃側:戦闘での戦死はゼロ。
  • その後半年:占領軍では疫病が蔓延し、448人が病死、兵員損耗は半数近くに達した。砲火ができなかったことを、マラリアと赤痢が成し遂げた。城中の住民は略奪と疫病で流離したが、統計はない。

戦後への影響

  • 定海失守の上奏報告は北京を揺さぶり、「撫」を主とする琦善路線が浮上した。道光帝は林則徐を罷免した。
  • 英軍は兵を残して占領し、主力は北上して白河で書簡を差し出した。1841.2、琦善の交渉により定海はいったん返還された。7か月後、戦端は再び開かれ、英軍は二度目の定海占領を行った(『第二次定海の戦い』を参照)。
  • 張朝発は死後、「守れなかった」と追論された。姚懐祥は昭忠祠に祀られた。

当事者の証言

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  • 姚懐祥:福建侯官の人(林則徐の同郷)。敵艦に乗り、砲艙を自ら見て、全城で最も「守り切れない」ことを理解していた人物だった。それでも残ることを選んだ。なすべきでないと知っていて殉じることと、深浅を知らない勇とは別のものだ。
  • 張朝発:開戦初日に重傷を負った水師総兵。死後も「失土」の追責を背負わされた。代差に最初の一群として直面した人々であり、旧い問責の論理で最初の一群として処理された人々でもあった。
  • 448名の英軍病死者:征服者は蚊虫に敗れ、舟山に葬られた(墓地の現状未詳)。彼らの定海の記憶は勝利ではなく、墓地だった。

戦場の地形

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港口県城の三層の縦深:道頭埠頭、城壁、城外高地。艦砲の直射下で、沿岸防備にはほとんど反撃の手がなかった。「9分」という時間尺度それ自体が、空間設計の鍵だった。

各方面の記述

  • 中国側:姚懐祥は殉節して祀られ、張朝発の評価は功罪半ばした。後世の叙述は「殉」を重く見る。
  • 英国側:従軍記(バーナードら)が詳しく記したのは戦闘ではなく、占領期の疫病の苦しみだった。彼らが記憶した定海は、一つの病だった。

論争と留意点

  • 「戦死13人で城を失った」:潰散の根は制度にある。汛塘の分散、野戦編制の欠如、客兵の寄せ集めであって、個々人の怯懦ではない。
  • 疫病は「天罰」式の痛快な読み物の材料ではない。

資料と未詳事項

資料:茅海建『天朝的崩溃』;バーナード『復讐女神号航行作戦記』;『定海庁志』/地方文献;英軍医報告(疫病データ源)。

未詳事項:守軍兵力と「戦死13人」の典拠ページ;「9分」の記録原文;姚懐祥の乗艦の詳細;英軍病死448人の構成と墓地の現状;戦前の沿海防備諭旨の月と文言;林則徐の英軍陸戦能力判断の典拠;英国議会討論におけるグラッドストンらの演説原文;「ロンドンには対岸の沿岸防備の実測が欠けていた」という推断の根拠資料;隣省から兵を浙江へ送る諭令と到着時系列。

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