戦役アーカイブ · 錦州攻堅戦
2 年前に四平で最も痛切な授業料を払った。その卒業試験として、今度は東北野戦軍が 31 時間で錦州をこじ開けた。
戦闘概要

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 時間 | 1948.10.9 外囲戦開始 – 10.15 全城攻略(義県前哨戦 10.1) |
| 場所 | 遼寧省錦州(遼西回廊の喉元、北寧線の要衝) |
| 所属 | 解放戦争 · 遼瀋会戦(「門を閉ざす」一戦) |
| 攻撃側 | 東北野戦軍主力 5 個縦隊、約 25 万(林彪、羅栄桓、劉亜楼が指揮;攻城指揮所が直接指揮)(兵力の数え方は諸説あり) |
| 防御側 | 東北「剿総」錦州指揮所主任・范漢傑の管下約 15 万(数え方は諸説あり) |
| 結果 | 10.14 総攻撃、31 時間で城を破る;范漢傑は捕虜となり、長春、瀋陽がこれに続いて連鎖的に崩れた(『遼瀋会戦・総覧』を参照) |
交戦勢力
| 項目 | 攻撃側 | 防御側 |
|---|---|---|
| 兵力 | 約 25 万(5 個縦隊+砲兵縦隊、数え方は諸説あり)、攻城と援軍阻止に分兵 | 約 15 万で全城を守備(数え方は諸説あり)、多くは寄せ集めの部隊で、士気にはばらつきがあった |
| 火力 | 砲兵縦隊を集中使用し、総攻撃では火砲 900 門前後を集中(数え方は諸説あり)――東野砲兵はここに至って一個の軍として形を成した | 城防砲兵と堅固な工事を持つが、火力の総量では劣勢 |
| 攻堅手段 | 坑道爆破、歩砲協同、多梯隊の連続突撃――四平以後に整理された攻堅学の全セットが投入された | 外囲高地の拠点群+城壁・壕溝の永久工事 |
| 外援 | 塔山、黒山の 2 方向で援軍阻止を保障(詳しくは『塔山阻止戦』を参照) | 侯鏡如「東進兵団」が葫蘆島から、廖耀湘兵団が瀋陽から、2 路で来援――1 路は塔山で止まり、1 路は遼西で逡巡した |
戦場環境

(1948 年秋の大きな情勢――全国の兵力比較、東北から撤退するか残留するかの争い――は『遼瀋会戦・総覧』を参照。ここでは錦州一地だけを書く。)
錦州は東北と華北の間に差し込まれた閂だった。北寧鉄道が市内を貫き、城外に出て山海関を越えれば華北、戻れば瀋陽と長春である。錦州を取る者は、東北にいる数十万の国軍の陸路退路を閉ざすことになる。城そのものは旧城に近代の鉄道要衝が重なり、外囲には配水池、亮甲山など一帯の高地があった。これらは天然の障壁であり、国軍はそれを永久拠点群として整備していた。戦闘時、城内にはまだ大量の平民が疎開せずに残っており、攻城砲火と巷戦の下に置かれた平民の境遇(記載未詳)。
なぜ戦われたか
済南城が破られたその日、東北の戦いは実はすでに 12 日続いていた。9 月 12 日、東北野戦軍は北寧鉄道沿線で動き、遼瀋会戦の幕が開いた。関内では、10 万人が防御する省都が守り切れないことがたった今証明された。関外で答えなければならない問題はもっと大きかった。55 万の国軍精鋭は、なお東北を離れられるのか。
3 年の経営を経て、東北は全国で唯一、敵味方の対比が逆転した戦区となっていた。解放区はすでに土地の 97%、人口の 86% を占め(数え方は諸説あり)、東野は地方部隊を合わせて 100 万を超えていた。国軍 55 万は長春、瀋陽、錦州の 3 点 1 線に閉じ込められ、補給は空輸と海運で命をつないでいた。撤退か残留か、南京は 1 年争いながら決められず、錦州撤退の通路は早くから存在しながら未決のままだった(蒋・衛の争いに関わる決策史、未詳)。中央軍事委員会の判断は、決戦はここに置かれている、というものだった。東北は工業、食糧、兵源がそろった総後方であり、ここで勝てば全国の兵力対比はここからひっくり返る。
しかし決戦をどこから切り開くかについては、さらに数か月争われた。錦州は東北と華北の間に差し込まれた閂だった。北寧鉄道が城内を貫き、城外に出て山海関を越えれば華北である――錦州を取る者は、東北にいる数十万の国軍の陸路退路を閉ざすことになる。中央軍事委員会と東野の間では、「先に長春を打つか、先に錦州を打つか」をめぐる電報が数か月往復した(電報史は『遼瀋会戦・総覧』を参照)。長春を打つなら、主力は北満根拠地を背にしており、安定している。錦州を打つなら、大軍は遠路南下し、リスクのすべてを道中に載せることになる。9 月、錦州攻撃が定案となった。その理由は後に 2 つの比喩にまとめられた――長春を打つのは「尻尾をつかむ」ことであり、錦州を打つのは「大門を閉める」ことだった。錦州がひとたび攻略されれば、東北の国軍は袋の鼠となり、門を閉めて打つ態勢が成立する。
定案は一つの賭けだった。東野 5 個縦隊、約 25 万(兵力の数え方は諸説あり)は遼西へ南下し、補給線は一本の線に懸かった。侯鏡如「東進兵団」は葫蘆島に、廖耀湘兵団は瀋陽にあり、2 路の援軍が東西から進んでくる。もし塔山、黒山の 2 か所で止められなければ、錦州攻撃部隊は背水の勢いに置かれる。守城の范漢傑は約 15 万を管轄していた(数え方は諸説あり)。兵力は足りないが工事は余るほどあった――外囲の配水池、亮甲山をめぐる一帯の永久拠点群――彼が頼みにしたのは、まさにその 2 路の援軍が進んで包囲を解くことだった。城内と城下、双方が賭けていたのは実は同じ一点だった。門外の援兵は、はたして到着できるのか。
10 月 1 日、東野はまず北方の前哨、義県を抜いた。10 月 9 日、錦州外囲戦が始まった。門を閉ざす戦いは、この日から始まる。
戦闘経過

| 段階 | 時間 | 要点 |
|---|---|---|
| 前哨:義県 | 10.1 | 錦州攻撃の前に、まず北方の義県を抜く。城が攻略された日、東野砲兵司令の朱瑞は突破口を視察中に地雷に触れて戦死した――解放軍が戦争全体で失った最高級別の将領の 1 人(詳しくは総覧を参照) |
| 外囲戦 | 10.9–13 | 外囲高地を一点ずつ争奪した。配水池:守軍が「鉄で打った男たち」と自らを励ました堅固な拠点(守軍士気の記載未詳)であり、攻撃側の 1 個大隊は数十人を残すまで戦ってようやく攻略した(詳細不明);亮甲山などの拠点も同じく血戦となり、何度も手を替えた――外囲 5 日間の苛烈さは攻城に劣らなかった |
| 総攻撃 | 10.14 午前 | 900 門の火砲(数え方は諸説あり)による砲火準備の後、南北から対進。北集団が主攻、南集団が助攻となり、多梯隊で連続突撃し、坑道爆破と梯子による登城を併用した |
| 巷戦と破城 | 10.14–15 | 城壁の複数箇所を突破した後、縦深へ分割して進む。守軍の指揮体系は急速に瓦解した。10.15 夜、全城が定まり、31 時間 |
| 捕虜 | 10.15–16 | 范漢傑は変装して潜逃したが、錦州東南方向で遮られて捕虜となった(経路の詳細未詳) |
損害

- 攻撃側:外囲の配水池、亮甲山などで死傷が最も重く、総攻撃の死傷は相対的に軽かった――攻堅学の効き目はまさにここにあった。攻城全体の死傷数(数え方は諸説あり)。朱瑞の戦死が最高級別の損失だった。
- 防御側:15 万の守軍の大部が撃滅または捕虜となり、范漢傑以下、将官一群(名簿未詳)。
- 平民:攻城砲火と巷戦の中での市民死傷(記載未詳)。
戦後への影響
- 「門」は閂を掛けられた。長春守軍は錦州が破られたと聞いて絶望した――10.17 に曽沢生が起義し、10.19 に長春は落ちる。廖耀湘兵団は進退の根拠をたちまち失い、まもなく遼西で覆滅した。瀋陽は 11.2 に攻略された。錦州一城が全局を動かした連鎖は、『遼瀋会戦・総覧』を参照。
- 東野の攻堅能力はこの一戦を経て全軍に認められた――それ以前の「東野は大都市を攻められるのか」という疑問(四平の影)は、ここに至って消えた。
- 范漢傑は戦犯管理所に入り、後に特赦を受けた(篇をまたぐ収束線)。
当事者の証言

- 朱瑞:東野砲兵司令。日本士官学校出身で、解放軍砲兵の基礎を築いた人物。義県城が攻略された当日、突破口へ弾着点を見に行き、攻堅経験を研究していたところ、地雷に触れて殉職した。彼が築いた砲兵は 5 日後、錦州城下に 900 門を並べた(関連未詳)。
- 配水池:城北の給水用配水池を改造した堡塁。守軍は「配水池を守る者はみな鉄で打った男だ」と貼り出した(原話の階層未詳)。攻撃側は大隊級部隊を交替で投入し、数十人を残すまで戦った。戦後、ここは錦州戦の記憶の中で最も硬い地名となった。
- 31 時間:2 年前の四平攻堅における長期化と死傷との対照――同じ軍隊にとって、授業料は無駄ではなかった。
- 范漢傑の逃走:変装し、連れ立ち、小道を進む途中で検問されて見破られた(詳細未詳)――守将の最後の道程。
戦場の地形

- 外囲高地の拠点群が錦州防御の主体だった。配水池、亮甲山、合成燃料工場など、それぞれが独立して支え合い、火力で相互支援した――攻城の前に、まず一口ずつ噛み砕かなければならなかった。
- 旧城の城壁+鉄道要衝:城壁突破口の選択と多梯隊の連続突撃は、「卒業試験」の試験用紙そのものだった。
- 遼西回廊の地理:城は回廊の最も狭い場所にあり、東西の援軍は塔山、黒山という 2 つの口を通らなければならなかった――攻城と援軍阻止は、1 つの戦役の 2 つの半分だった。
各方面の記述
- 中共正典:遼瀋決戦の鍵となる一戦、攻堅戦の典範(『大決戦・遼瀋会戦』の中核段落)。「31 時間」と四平の対照は標準的な叙事である。
- 台湾側:東北崩壊の始まり。検討は、守城そのものよりも、撤退か残留かの争いによる遅れと、2 路の援軍が進まなかったことに集中する。范漢傑部が寄せ集めで、士気が固くなかったこともしばしば言及される(台湾側戦史の数え方は諸説あり)。
- 民間の記憶:配水池一地の惨烈さは、錦州現地の口述と参戦者の回想の中で繰り返し現れる。
論争と留意点
- 攻城兵力「25 万」と守軍「15 万」の数え方の境界(援軍阻止部隊と外囲部隊を含むかどうか)――2 説が併存する。
- 「900 門の火砲」という数字は、各文献の間で出入りがある(数え方は諸説あり)。
- 平民死傷は 2 種類の叙事のいずれにおいても記述が少ない――このアーカイブでは、ここについてはただ「記載未詳」と記し、数字を補わない。
資料と未詳事項
既知の主要資料:
- 『東北解放戦争史』『遼瀋会戦』叢書
- 攻城指揮所および参戦各縦隊の戦報、総括(アーカイブ採録未詳)
- 范漢傑および捕虜となった将官の回想;台湾側『戡乱戦史』東北段
未詳事項:攻撃側 25 万と防御側 15 万の統計基準;総攻撃時の火砲門数;配水池戦闘における攻撃側大隊の番号と死傷細目;朱瑞戦死の具体的地点と状況;范漢傑が捕虜となった経路の詳細;攻城期間中の平民死傷記載;守軍「鉄で打った男たち」標語の出典。
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