戦役アーカイブ · 中原突囲
5万人が30万人に、鄂東の宣化店を中心とする半径百里の山地でまる1年包囲された。1946年6月26日夜、部隊は各路に分かれて突囲した。この一発を、通行する史書は全面内戦の第一発として記している。
戦闘概要

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 時間 | 1946.6.26 – 7月末(各路の部隊が突出し、目的地に到達した時期は前後して一様ではない。王震部の延安北帰は8月末になってようやく到着。時系列は本文参照) |
| 場所 | 鄂豫皖境界、鄂東の宣化店(現在の湖北省大悟県)を中心とする中原解放区。突囲路は豫西、陝南、鄂西北、蘇皖に及んだ |
| 所属 | 解放戦争 · 全面内戦勃発のしるし(大勢は『解放戦争・総覧』参照) |
| 突囲側 | 中原軍区(李先念、鄭位三、王震、王樹声ら)約5万 |
| 包囲側 | 国民党軍鄭州綏靖公署(主任・劉峙)約30万(10個整編師25個旅という数は未詳)、包囲はすでに1年 |
| 結果 | 主力は各路に分かれて突出。北路は陝南へ、南路は武当山地へ入り、皮定均旅は東へ出て蘇皖へ向かった。中原解放区は失われ、部隊は過半を損耗したが、幹部骨格と部隊番号は保存され、国民党軍30万を1年にわたり牽制した |
交戦勢力
| 項目 | 中原軍区 | 包囲する国民党軍 |
|---|---|---|
| 兵力 | 約5万(中原軍区全体。野戦軍と地方部隊を含む。ほかに6万とする数え方もあり、未詳) | 約30万、トーチカを幾重にも築いて封鎖 |
| 装備 | 抗日戦争期以来の手持ち装備で、弾薬は不足。1年包囲され、後方補給なし | 米式装備と日本式装備の混成で、兵員・火力とも優位 |
| 後勤 | 経済封鎖の下で食糧・弾薬とも不足し、駐屯地区の住民への負担と節約で維持(封鎖の詳細は未詳) | 鉄道・道路が便利で、補給は十分 |
| 態勢 | 内線:半径百里に満たない袋状陣地。退く道はなく、突囲以外に道はない | 外線:トーチカによる封鎖圏が徐々に締まり、6.26総攻撃、短時間での撃滅を予定(「四十八時間で撃滅」説は未詳) |
戦場環境

(1946年前半の大勢、すなわち停戦令、政治協商会議決議、マーシャル調停、山海関内の全面内戦への導火線については『解放戦争・総覧』を参照。ここでは中原の一角だけを書く。)
中原軍区はどのように生まれたか: 抗日戦争勝利後、新四軍第5師(李先念)、八路軍第359旅南下支隊(王震)、河南軍区部隊(王樹声)の三大勢力が桐柏山地で合流し、1945年10月に中原軍区を編成した。この根拠地は、南京還都後の国民政府のすぐ脇に楔のように入り込み、武漢へも南京へも数日の行程にすぎなかった。
1年の包囲: 1946年1月に停戦令が発効すると、中原軍区は現地待機を命じられ、移動を許されなかった。一方、国民党軍は侵食と圧縮を続け、5万人を宣化店を中心とする半径百里に満たない一角へ押し込み、トーチカで道路を封じ、経済封鎖を行った。食糧価格は急騰し、兵士は半ば飢えた(封鎖手段の細目は詳細不明)。周恩来は1946年5月、宣化店へ自ら赴いて交渉・視察を行い(日付と軍事三人グループの行動は未詳)、中原部隊を包囲撃滅すれば全面内戦になると警告した。最後の和平努力は、6月の配置を止められなかった。
なぜ戦われたか
四平街の硝煙は5月に収まり、林彪は松花江の向こうへ退いた。6月6日、第二次停戦令が発効し、国民党軍は江南で足を止めた。山海関外の銃声はいったん止んだ。だが導火線は東北ではなく、山海関内の中原にあった。
視線を松花江から、千里離れた鄂豫皖境界へ移す。抗日戦争の勝利直後、新四軍第5師、八路軍第359旅南下支隊、河南軍区部隊の三勢力が桐柏山地で合流し、1945年10月に中原軍区を編成した。この根拠地は、南京還都後の国民政府のすぐ脇に楔のように入り込み、武漢へも南京へも数日の行程にすぎなかった。1946年1月に停戦令が発効すると、この5万人は命令により現地待機となり、移動を許されなかった。だが国民党軍のトーチカと封鎖線は縮まり続けた。1年のあいだに、宣化店を中心とする半径百里に満たない一角へ押し込まれ、経済封鎖で食糧価格は急騰し、兵士は半ば飢えた。停戦令が凍らせたのは移動であって、包囲ではなかった。
国民党側の配置の中で、この根拠地は「心腹の患」であり、各解放区への全面攻勢に先立って抜くべき最初の釘だった。これを抜けば武漢の門戸は開け、包囲に当たる30万の軍も手を空けられる。劉峙部の約30万人はトーチカを幾重にも築き、6月26日の総攻撃、短時間での撃滅を予定していた(「四十八時間で撃滅」説は未詳)。劉峙は、1年封鎖され疲弊し飢えた5万の軍は逃げようがないと見ていた。共産党側の計算は別だった。現地待機は座して死を待つことに等しく、守るべきものは土地ではなく、幹部骨格と部隊番号だった。5月、周恩来は軍事調停三人グループに随行して宣化店へ自ら赴き、包囲圏の中心にある小さな町で最後の和平努力を行った。その場で、中原部隊を包囲撃滅すれば全面内戦だと警告した。警告は6月の配置を止められなかった。
6月下旬、中原軍区は総攻撃が迫っていることを察知した。6月23日、中共中央は中原局へ電報で「ただちに突囲せよ、早ければ早いほどよい、いかなる懸念も持つな」と指示した(電文原句は未詳)。
突囲という二文字が物質面に落ちると、それは具体的な放棄の連なりだった。重火器は持っていけず、埋めるか破壊するしかない。歩けない傷病員は現地に配置し、住民に託した(配置の経過とその後の運命は未詳)。各人が身につけたのは数日分の乾糧だけで、ポケットの外に後方はなかった。1年包囲され、部隊は節約と駐屯地区の糧秣で維持されてきたが、この時点ではその最低線さえ捨てることになった。方向も一つではなかった。東へ向かい蘇皖に接近する、西へ向かい豫西・陝南に入る、現地で分散して持久する。さまざまな進路が中原局内部の会議に上がった(論争の細目は未詳)。最終的に、主力は南北二路に分かれて西へ向かい、皮旅は東へ陽動する方針となり、中央の承認を受けた。包囲する側では、30万人が1年包囲しながらなかなか攻撃しなかった理由の一つに、停戦令と調停が存在したことがあったとされる(この説は未詳)。6月になると、懸念は日程表に道を譲った。
6月26日夜、5万人は総攻撃の発起に先んじて各路へ分かれて進んだ。この夜を、通行する史書は全面内戦の始まりとして記す。誰が先に手を動かしたのか、両岸の史書にはそれぞれの書き方がある。停戦令は、それ以後、誰も再び口にしなかった。
戦闘経過

| 段階 | 時間 | 要点 |
|---|---|---|
| 突囲配置 | 6.23 – 6.26 | 中央の電報を受けて方針を決定。主力は南北二路に分かれて西へ、皮定均旅は東へ主力を装って陽動、地方部隊は現地で持久と退避を行う。突囲命令と各路線の分担細目は未詳 |
| 北路(李先念、王震) | 6.26夜から | 1.5万余が平漢鉄道を越えて西進(6.29前後に通過、未詳)。豫西、丹江、荊紫関を経て一路血戦し陝南へ入り、豫鄂陝根拠地を創設した。南化塘、鮑魚嶺などの戦闘(戦闘細目は詳細不明)が最も凄烈な箇所だった |
| 王震部の北帰 | 7月 – 8月末 | 359旅は陝南からさらに北へ戦い進み、千里を転戦して延安へ戻った(8月末に陝甘寧辺区へ到着、毛沢東が自ら迎えた細部は未詳)。2年前に延安から広東へ南下し、抗日戦争勝利を待たずして北帰した南泥湾部隊の帰郷線であり、前後2万余里に及んだ(里程の数え方は未詳) |
| 南路(王樹声) | 6.26夜から | 平漢線を越えた後、武当山地へ入り、鄂西北根拠地を創設した |
| 皮旅東向 | 6.26 – 7.20前後 | 第1縦隊第1旅(皮定均)7千人が東へ陽動し、主力を偽装して敵軍を引きつけ、掩護を終えると独立して向きを変えた。千里を転戦して大別山を越え、7月20日前後に編制を保ったまま蘇皖解放区へ到達した。「皮旅」の名はここから伝奇となった(行程と戦闘細目は詳細不明) |
| 牽制と善後 | 7月 | 国民党軍30万は、追撃と封じ込め、掃討に1か月余り引き止められた。中原局指導者の鄭位三らは変装して移動した(経過は未詳)。地方武装と傷病員は退避・配置された |
損害

- 中原軍区:突囲前後で過半を損耗した。5万人が突出した後、残ったのは2万余(通行する数え方。各路の数え方には諸説あり。359旅は南下出発時3千余、延安帰還時は2千未満、未詳。皮旅は7千で出発し、5千余が蘇皖に到達、未詳)。
- 包囲する国民党軍:死傷者数と撃滅された人数には二つの数え方がある(共産党側戦報の戦果(撃滅数)と国民党側の自報には大きな差があり、いずれも未詳)。
- ※ 民間人と捕虜:突囲後、国民党軍は中原解放区に入って「掃討」を行い、旧根拠地の住民は報復的な破壊を受けた(規模は未詳)。突囲途上の部隊は現地で食糧を調達し、沿道住民への徴発と対価支払いの状況は要調査。落伍者、傷病員、女性兵士の配置と運命、捕虜となった人員の処置は記録が散在しており、あわせて要調査。
戦後への影響
- 6月26日は、全面内戦勃発の通行する紀年上の結節点となった。以後、国民党軍は各解放区へ全面攻勢をかけ、交渉の席に残っていた最後の余温も消えた。
- 豫鄂陝、鄂西北の二つの新根拠地は築かれたが長く維持することは難しく、1947年に主力は相次いで撤退した(経過は未詳)。ただし、その存在は大西北・大西南の門戸で国民党軍兵力を牽制した。
- 皮旅は華中に入った後、華東野戦軍の序列に編入された(後の沿革では第181師、未詳)。359旅は延安へ戻った後、西北に復帰した。
- 中原突囲は、「幹部骨格を保存し、重兵を牽制した」戦略的移動として中共軍史に書き込まれた。毛沢東による、中原突囲は「きわめて大きな戦略的作用を果たした」とする評価は広く伝わっている(原文表現は未詳)。
当事者の証言

- 周恩来の宣化店行き:1946年5月(具体的な日付と同行した米国側・国民党側代表は未詳)、周恩来は軍事調停三人グループに随行して宣化店へ自ら赴いた。包囲圏の中心にある小さな町で、最後の和平努力を行ったのである。周はその場で、中原部隊を包囲撃滅すれば全面内戦だと警告した。1か月後、その言葉は現実になった。
- 「皮有功、少晋中」:1955年の授階で、皮定均は当初少将に予定されていたが、毛沢東が「皮有功、少晋中」と批示し、これにより中将を授けられた(批語の原本と正確な文言は未詳)。六字の批語は、皮旅の千里突囲が10年後に返した反響だった。
- 王震の帰郷:359旅、南泥湾を開墾したあの部隊は、1944年に広東へ南下し、1946年に宣化店から一路戦って延安へ戻った。2年2万里の南下と北帰、出発時3千余、帰還時2千未満(数え方は諸説あり)。一部隊の帰郷線が、内戦初期における中原軍区の運命全体を描き出している。
- 突囲の夜:6月26日夜、各路の部隊は雨を冒して(天候の詳細は未詳)静かに陣地を離れ、皮旅の銅鑼と太鼓は東へ行くほど大きく鳴った。陽動部隊は音で主力のための時間を買った。
- 変装して移動した人々:中原局書記の鄭位三、陳少敏ら、体の弱い同志や女性同志は変装して封鎖線を越え、移動した(経過は未詳)。突囲名簿の外にも、見えない撤離線が一本あった。
戦場の地形

- 宣化店:鄂豫境界、竹竿河畔の小さな町。包囲圏が収縮した後の中心であり、半径百里に満たない袋状陣地が、突囲方向と通過の時間窓を狭めていた。
- 平漢鉄道:突囲の生死線。西へ突くすべての部隊が越えなければならない鉄の封鎖帯であり、通過の時間窓は夜単位で数えられた。
- 四つの地理線:豫西の伏牛山、陝南の秦嶺(北路)。武当山地(南路)。大別山—皖中平原(皮旅東線)。陝南—陝北(王震北帰線)。一度の突囲で、中国の半分の山を歩き尽くした。
- 空間の文法:内線突囲。偽装、声東撃西、夜間越線、隘口での血戦、軽装急進。運動戦教科書の裏面、すなわち包囲された側の視角である。
各方面の記述
- 中共正典:中原突囲は偉大な戦略的移動である。幹部骨格を保存し、30万の国民党軍を牽制し、各解放区が戦備を整える時間を勝ち取った。6.26は全面内戦勃発のしるしであり、「国民党が全面内戦を発動した」紀年の起点である。
- 台湾方面:「戡乱」の叙事では「中原囲剿」と記録し(名目は未詳)、李先念部を撃破し、戡乱の初勝利を達成したとする。「誰が先に手を動かしたのか」について、国民党側の叙事は共産党軍の突囲が先だったとする場合もあり、またこの戦闘を避けてその後だけを述べる場合もある(台湾側戦史の具体的表述は要調査)。
- 後世と学界:二つの層が並列して語られる。第一に、「第一発」の位置づけである。通行する説では、6.26の国民党軍による中原解放区包囲攻撃を全面内戦勃発とする。国民党側にはそれぞれの表述があり、これは両岸の紀年差異の原点の一つである。第二に、成否をめぐる議論である。幹部骨格を保存し、重兵を牽制した戦略的移動という評価と、根拠地を失い、過半を損耗した代価という評価。その二つの重みをめぐる争いは、学界で長く存在している。
論争と留意点
- 「誰が先に手を動かしたのか」:両岸紀年の最初のドミノである。「6.26通行説」と「両岸それぞれの表述」が併存している。
- 突囲の性格づけ:戦略的移動と潰走の間に、学界の評価には幅がある。過半を損耗したという数字そのものは修飾しない。
- 1年の包囲期における軍民関係:5万の部隊が半径百里の土地で1年食糧を調達したこと、駐屯地区の住民から何を取り、何を返したのかは敏感な記録である(詳細は要調査)。
- 各路部隊の損耗の数え方には大きな差があり、出典も異なる。
資料と未詳事項
既知の主な資料:
- 『李先念伝』、中原軍区戦史関連巻
- 中共中央1946.6.23の中原局宛電報(「ただちに突囲せよ」電、原文は未詳)
- 皮定均日記および皮旅突囲の回想資料(複数、版は未詳)
- 台湾側官修「戡乱」戦史関連巻(巻目は要調査)
未詳事項:中原軍区の兵力の数え方(5万/6万)と構成。国民党軍30万の編制序列。「四十八時間で撃滅」の語の出典。6.23中央電の原文表現。周恩来の宣化店行きの日付と随行者。各路突囲の重要戦闘細目(南化塘、荊紫関、丹江などの戦闘)。359旅の南下北帰の里程と人数の数え方。皮旅の行程と蘇皖到着日。各部損耗の統計範囲。国民党軍「掃討」期における旧根拠地住民の被害記録。突囲途上の食糧調達と徴発の記録。落伍した傷病員と女性兵士の配置。毛の「少晋中」批語原本。台湾側戦史の名目と性格づけの原文。突囲前に傷病員を現地配置した経過と運命。中原局内部における突囲方向をめぐる論争の細目。国民党軍が1年包囲しながら攻撃しなかった理由(停戦令と調停の制約という説)。
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